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ミュンヘンに吹く風 6
 これが現実なのか、夢の続きなのかわからない。
 唇を離されから、俺はマークの顔をまっすぐに見られなかった。  
「クリス、折角パッサウに来たんだ。少し周りを見て歩こうか」
 川に囲まれた小さな町は一時間もあれば全て見て回ることができた。
 みやげ物屋を冷やかす間も、電車に乗ってからも、マークは俺の手を離さなかった。
 嫌ではなかったが、終始どんな顔をしていいかわからなかった。

 再び電車に揺られてホテルに戻ると、マークはどこかへ出かける準備を始めた。
「これから明日の演奏会の練習に行くが、ついてこないか」
 マークのオルガンを聴いたことはなかったし、彼がどんな音楽を奏でるのか興味があった。何よりクラシックの生演奏は大好きだ。
「私の演奏じゃ不満か?」
「練習の邪魔にならなければ行きたい。ピアノをやっていたし譜めくりくらいならできる」
 マークは俺を抱き寄せると、軽く俺の唇をついばむ。
「やっぱり相手が男じゃ嫌か?」
「・・・言っただろう、俺はゲイじゃないって」
 この男と本当に一緒にいていいのだろうかと逡巡していると、マークは苦笑した。
「私も昔はゲイだとは思わなかったが、ある時から自分に正直に生きることにしたんだ。私のことを一人の人間としてどう思うか、考えてみてほしい」
「・・・わかった」
 マークの少年のような瞳に見つめられて、俺は断ることができなかった。

 午後5時、俺とマークは地下鉄でミュンヘンの町外れの教会に向かった。
 教会の事務所で聖堂の鍵を受け取り、二階席へ向かった。
「小さいがいいバロックオルガンだ」
 マークはストップ(音栓)の位置やパイプの調子などを念入りにチェックしている。
「よかったら明日の演奏会にも来てほしい。これで入ってくれ」
 そう言って財布から一枚のチケットを取り出して俺に渡した。
 彼は演奏台の前の椅子に腰掛けると、靴を演奏用のオルガンシューズに履き替えた。
「J. S. バッハのパッサカリアとフーガ、ハ短調。譜めくりを頼む」
 大きく息を吸い込むと、厳かな表情で鍵盤に触れた。
 重々しいイントロからメインの旋律、バリエーションと進んでいく。
 俺は彼の演奏に聞き入ってうっかり譜めくりを忘れそうになった。20分以上かかる曲だったが、それほど長いとは感じない。
 マークのバッハ解釈は知らなかったが、重厚な旋律は重々しいだけでなく、生命の力強さのようなものを感じさせた。

 演奏を終えると、マーク俺の方を向いて話しかけてきた。
「この曲を聴いて、私はオルガニストになろうと決めたんだ。バッハの作品の中でも特に気に入っている。明るい曲ではないけれど、ただ陽気なだけの音楽は嫌いだ」
「俺もバッハは好きだ。オルガン曲はあまり詳しくないけどな」
「もう何曲か弾くが、短い曲だからあとは譜めくりはいらない。ただ、この箇所で左から3番目と7番目のストップを押してほしい」
 オルガンの横にずらっと数字や文字の入ったボタンがあり、それを押すとオルガンの音色が変わる。
 彼は巧みに指を動かしながら、複雑なペダル動作を正確にこなしていく。時に自分でもストップの切り替えをし、彼の手足の動きは終始止まることがなかった。

(すごいな・・・どうしたらあれだけ指と脚が動くんだ)
 マークの奏でる旋律は時に激しかったが、同時に哀愁を帯びていた。
  真剣な表情をしてオルガンに向かうマークは、男の自分から見ても格好よく見えた。これだけの技巧を習得するために、彼はどれほどの時間と労力を費やしたんだろう。

 いつの間にか俺はマークの演奏のとりこになっていた。
 もっと彼の音楽を聴きたい、彼を知りたい、そう思わせる力が彼の演奏にはあった。   
「一通り指慣らしが終ったから今日はこれで終わりだ」
 彼に話しかけられて俺は我に返った。
「いいものを聴かせてもらった。ありがとう」
「私のことをもっと知りたくなったか?」
 マークがこちらに歩み寄ると、俺の頬に軽くキスをした。
「ここをどこだと思ってるんだ、教会だぞ教会!」
「どこかで夕飯にしないか。ビールとソーセージがうまい店があるんだ」
(ゲイじゃないって言ってるだろうが…)
 ミュンヘンに来てから、俺は完全にこの男のペースに乗せられていたが、何故か彼に対して嫌悪感を抱くことはなかった。

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